岬梓の過去編①

これは始まる前のお話、だれもまだ出会っていない頃の予感の記憶。


  岬和積

「兄ちゃん、あれは何」
 二階のちょっとした出窓から弟が指をさしたのは隣のお屋敷の奥の端、離れの辺りだった。
「あれって?」
 おれもすこし乗り出して、本当はあの家をじろじろ見下ろすのははばかられるけれど、梓の視線を追った。
「あれ。あそこの女」
 彼が言っているのはどうやら小さな女の子のようで、きれいな服を着たお嬢さんが小さな離れの建物から出てきたところだった。
「こら、人のことをあれとか言わないの」
 おれは彼女のことを知っている。あの黄色の混じった黒髪は、弟と同い年で、あの家……佐倉家の長女、佐倉蜜沙だ。
「……ちがう。あいつ、何されてんの」
 おれに諌められた弟は首を振ってまだ見てろと言いたげに指さしたままでいる。その手にそっと自分の手を重ねて隠しながらこっそりお隣さんを注視していると、離れから中庭をはさんだ母屋の中から誰か着物の大人が出てきた。見たことのない人だったが、あの服装や様子なら使用人の一人だろう。
 ……この時点で、梓の言いたいことに察しがついてしまった。
 少女は使用人から何かを受け取る。それは食事の並んだ盆だった。受け取ると特に会話もなく使用人は背を向けて母屋へ戻っていく。蜜沙ちゃんは置いて行かれてしばし立ち尽くしたあと、からくり人形のようにお盆をささげ持ちながら離れへと戻った。
「あ——……………、」
 おれは返答に窮して明後日へ目を逸らす。
「………………屈辱的だ」
 けれど梓の視線はあの離れに釘付けされ、ただ低く唸るように、絞り出すように呟いた。
「蔑ろにされてる。」
「梓…………?」
 隣にいる弟から一瞬、何も声が聞こえなくなる。どうしたのかと思って見ると、弟は言った。
「おれならあんな指噛みついてやる、噛みちぎってやる」
 そんなことをどこで覚えたのか、彼は見開いた目に怒りをたたえて、なかなかに惨いことを呟いた。
 おれはその様子に気圧されて、辛うじて諌めるだけで精一杯だった。
「またそんな、こわいこと言うし…………」

0コメント

  • 1000 / 1000

からばこ

がらくた標本箱による自己満足空間です。